求菩提山(くぼてさん) 2008.8.3

つぎに登る山は、求菩提山(くぼてさん)です。福岡県豊前市のシンボル的な山であり、かつては修験の山であったそうです。 まず犬ヶ岳登山口から、求菩提山の座主坊まで車で数分の距離ですが移動します。本来の登山口は山麓にありますが、炎天下の登山は短時間で済ませたいので、車で高度を稼ぎます。県道の途中に、岩清水を汲める場所がありました。そこで、冷たい水で顔を洗い、水分補給をしました。 座主坊園地の駐車場に車を止め、ここから登山開始。なお、この駐車場には清潔なトイレがあります。 写真を撮る場所もあまり無い様な気がしたので、カメラのレンズは最小限(ZD 25/2.8)にして、ザックを軽量化しました。 駐車場から参道を登って行くと、当時の山伏の生活を紹介する案内板が幾つか立っていたので、抜粋して紹介します。
山のすがた
現在、山は無住で往時の様子を知ることは出来ませんが、明和元年(1764)に作られた木版画に詳しい山の姿が描かれています。それによれば山伏の住む集落は「坊中」と呼ばれ、山中には上谷、杉谷、南谷、西谷、中谷、北谷、下谷の七つの坊中がありました。また各坊中にはお堂も描かれ、山門、常香堂、多宝塔さらには山伏(修験者)の最高位である座主(ざす)の屋敷など、今はみることのできない建物も確認することができます。一方、茶畑や田畑などの土地利用の方法も分かり、「一山五百坊」と呼ばれた求菩提山のにぎやかな生活の実態を知ることができる貴重な資料です。
求菩提山絵図(明和元年)
1. 求菩提山絵図(明和元年)
参道の途中には、座主坊(ざすぼう)の跡地にいく枝道があります。(わたしは見に行きませんでした ^^;)
座主とは、求菩提山の修験者(山伏)の頂点に立つ位であり、座主坊は座主が住んだ坊(屋敷)の跡地です。案内板には、山伏の組織構成や、千日行という修行について説明がありました。(が省略します)
そして、明治5年(1872)に修験道禁止令が出されると、修験者達は次々と山を去り、修験の山としての求菩提山の歴史は終わります。
参道の石段を登りきると安城寺跡に突き当たり、そこで進路を左にとります。途中、獅子の口という水場ありますが、この時は殆ど水は流れていませんでした。 獅子の口@求菩提山 2.
獅子の口
獅子の口の水は、上宮の巨石の下より湧き流れる法の水である。菩提を求め、参詣する善男善女にとっては、全く甘露の水である。昔は、水を飲み、衣を整え、いよいよこれから法界に足を踏み入れるところとされていた。飲むことは身を清めることである。またこの水は、みそぎ場の水となる。
求菩提山の参道 3. 中宮へと続く参道 求菩提山の中宮 4. 中宮の神殿
護国寺跡(国玉神社中宮)
ここは、求菩提山修験道の中核を担った護国寺がありました。「求菩提山縁起」によると、養老4年(720)も行善和尚が入山し、寺の建立をしたとありますが、定かではありません。本格的ながらんの整備は、12世紀中ごろに求菩提山中興の祖とされる頼巌上人によってなされたと考えられています。(中略)
なお、明治元年(1868)に出された神仏分離令により、ここは国玉神社と改められました。
鬼の鐙(あぶみ) 5. 鬼の鐙
鬼の鐙(あぶみ)
中宮から上宮に登る石段を、鬼の築いた石段、鬼の鐙という。鬼は権現様と約束どおり一夜で石段を築き上げようとしたが、夜明前、権現様は鶏の鳴き声をたてて夜明けを告げた。八鬼の鬼は、約束どおり一夜で築けず山から追い出されたとする伝説にもとづいた石段である。全長181米。一直線に登る。
求菩提山山頂(国玉神社の上宮) 6. 求菩提山の山頂に位置する上宮 国玉神社の上宮 7.
国玉神社上宮
求菩提山の山頂(標高782m)は、神が降りるところとして古くから特別な場所でした。国玉神社上宮周辺にある巨石群は盤座(いわくら)と呼ばれて、神が宿ると信じられていました。江戸時代に記された「求菩提山雑記」には、山頂は常に雲に覆われ、妖しげな光が見え,蒸気を噴出する「辰の口」という場所があると記されています。こうした特徴が、古代人の自然崇拝を呼び覚まし、求菩提山に芽生えた山岳信仰の原点となったと考えられます。(後略)
下山は、山の反対側に降りて、護摩場跡、五窟を経由して座主坊園地に戻りました。今回は真夏の登山でしたが、登山道(参道)の周囲は木に覆われていたので、予想した程は暑くなりませんでした。 求菩提山の山容 8. 求菩提山 求菩提山の登山ルートは、山伏の遺跡巡りという趣旨になっており、ネイチャーフォトっぽいのが好きな人は、被写体探しに苦労するかもしれません。カエル、ヘビ、トンボの類は沢山いましたが ... ひたすら長い距離を歩きたい人なら、犬ヶ岳から求菩提山まで縦走コースがあるので、そちらを試してみるのも面白そうです。

求菩提山